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Title

再発見・ニッポンの音/芸[7]
アジアン・コネクション


asian connection
Date 1934 - 1978
Label テイチク TECR20177(JP)
CD Release 1995
Rating ★★★★★
Availability


Review

 流行歌(歌謡曲)のなかでアジアはどのように描かれてきたか。このたいへん魅力的なテーマに正面から取り組んだ編集アルバムは、知るかぎり本盤をおいてない。
 
 みずからがオリエント(女)でありながら、他のアジア諸国にたいし、男(西洋)の視点から女を見るようなまなざしをむけるという日本の倒錯的な態度は、ジャニー喜多川に犯された無念を少女たちではらそうとするジャニーズの少年たちを見ているようだ。
 
 具体的にいうと‥‥。
 歌い手が男の場合、かれはかならず日本人で、異国の乙女の純情素朴な姿に異国情緒を思う(ルソーの「高貴な野蛮人」幻想。現在もサントリー烏龍茶のCMなどに健在)。さもなくば、遠く日本にいる母のことを思いやる(父親であることは絶対にない)。歌い手が女の場合は、異国の乙女か母親(まれに妻)に扮する。
 
 結婚前の大和撫子はまず登場しない。というのも、銃後を守る女たちは男の後ろ髪を引くような未練なマネはしないものだから*。毅然として送り出す大和撫子にたいし、異国の女たちは来るのを待っている。かれに支配されたくてたまらないのだ。
 
* 奥野椰子夫の作詞、服部良一の作曲で淡谷のり子がうたった昭和14年発売の「夜のプラットフォーム」は、「出征兵士を見送る風景が連想され、めめしい」という理由で発禁になった。この曲は、戦後の昭和22年に、双葉あき子がレコード化しヒットさせた。

 昭和15年(1940)の東宝映画『支那の夜』で、李香蘭扮する中国人の娘は、長谷川一夫扮する日本人船員に頬をぶたれたことで、かれを愛するようになる。かれと彼女の恋愛にはじめから対等な関係などなかった。彼女はかれにひれ伏して、かれの庇護を受けるのだ。

 こんな具合に、歌や映画のなかでは、姑娘(クーニャン)からも、酋長の娘からも、日本男児はモテモテ。たいするに、日本人以外の男性は登場することさえない。支配される側に支配原理である「男」は不要なのだ。


 
 さて、日本のアジア進出は実質的に日清戦争からはじまるのだが、「はやり唄」ではなく「流行歌」が誕生した昭和初期には、朝鮮や台湾はすでに日本に併合されていた。となると、最初のトピックは昭和6年(1931)の満州事変だ。
 
 「満州」を歌にした最初は明治38年(1905)に発表された「戦友」らしい。
 
「ここはお国を何百里 離れて遠き満州の 紅い夕日に照らされて 友は野末の石の下」
 
 それから四半世紀。満州国の建国宣言がおこなわれた昭和7年には、「満蒙維新の歌」(四家文子)、「護れ満州」(藤山一郎)、「討匪行」(藤原義江)など、満州関連の歌が急に多くなった。しかし、これらはどれも「戦友」の影響を受けた軍歌調であった。
 
 本盤冒頭の「国境を越えて」は、古賀政男のテイチク移籍第1弾として、満州歌謡の代表曲である東海林太郎の「国境の町」(大木惇夫作詞・阿武武雄作曲)と松平晃の「急げ幌馬車」とおなじ昭和9年(1934)に発売された。
 
 「国境」のむこうにはロシア(つまりヨーロッパ)がある。「夜」(および/または「冬」)の「広野」を「馬車」(または「そり」)でひた走るオレは行くあてなきさすらいびと。あの「空」(または「星」)の彼方にある故郷をふと想う。こんな設定が3曲すべてに共通している(カッコ内は常套語)。
 これこそまさに、満州について当時の日本人が抱いていたイメージだった。
 
 昭和52年(1977)にリリースされたムーンライダーズのサード・アルバム『イスタンブール・マンボ』収録の、かしぶち哲郎が書いたナンバー「ハバロフスクを訪ねて」も、依然としてこのイメージを引きずっている。
 
「金の麦を 踏みながら 見知らぬ国の 夢を見る 心決めて その日のうちに 虹の河を 渡る 故郷遠く離れ 東の果てまで 砂に塗(まみ)れ 凍てつく風 疲れ果てて 清い水を 分けてくれた女 時を尋ねる 春はまだ遠い 東の果てまで」(かしぶち哲郎作詞・作曲)
 

 
 歌詞のみならず、満州をイメージさせる音づくりが確立されたのもこのとき。
 
 まず、馬車(そり)の前進をイメージさせる2ビート系のリズム。メロディ・ラインはどれも日本調だが、このフォックストロット系のモダンなリズムがかぶさることで力動感が生まれた。そして、クラリネットやコントラバスのボーイングの感じは、哀愁混じりでユダヤの音楽クレツマーのよう。さらに「急げ幌馬車」では、リズム楽器になんとバンジョーが使われている。開拓のイメージからか。
 
 そして満州といえば、なんといっても鈴の音。「そりの鈴さえ さびしく響く」「国境の町」)。「急げ幌馬車 鈴の音だより」「急げ幌馬車」)。歌詞にもあるとおり、鈴の使用こそ、満州を表現する決め手となった。
 
 細川周平さんは、昭和6年(1931)に藤山一郎がうたった「走れトロイカ」で鈴が使われたのが直接のヒントになったと推測している。日本人にとって満州は中国とロシアが混じったイメージだったというが、流行歌においてはむしろロシア寄りだった。
 ただ、本格的なロシア風オペレッタとなると、服部良一が李香蘭の歌で昭和18年(1943)に発表した「私の鶯」しか知らない。だから、ロシアじゃなくて満州歌謡なのだ。
 
 ところが、本盤の「国境を越えて」については、じつは鈴が使われていない。クラリネット、ヴァイオリン、マンドリンの使い方など、典型的な古賀メロディである。作詞・佐藤惣之助、作曲・古賀政男、歌・楠木繁夫のトリオであることから、これは満州歌謡で括るよりも、翌10年発売の大ヒット曲「緑の地平線」の前段をなすものととらえるべきだろう。
 
 ちなみに、楠木繁夫は東京音楽学校の出身で、クルーナー系の楷書体のような歌唱は藤山一郎そっくり。
 古賀は、昭和16年(1941)に西條八十の作詞、李香蘭の歌で「夜霧の馬車」を発表している。ここでも基本は古賀メロディながら、李香蘭のリリカルな歌唱と相まって、「国境を越えて」とくらべると満州のエキゾティシズムがよりつよく感じられる。間奏部では鈴もちゃんと使われている。
 

 
 満州を題材とした歌で、これらとはまったくことなる流れがある。いわゆる芸者歌手による“ハア小唄”調である(「いわゆる」というのは音丸は芸者じゃなくてじつは下駄屋のおかみさん)。わたしが持っているだけでも、音丸の「満州想えば」「満州吹雪」、豆千代と松平晃の「夕日は落ちて」「曠野を行く」、美ち奴の「北満警備の唄」というように、この種のものが意外と多い。
 
 満州ではないが、本盤には美ち奴の歌で上海を題材にした「霧の四馬路(スマロ)」(昭和13年)が収録されている。これらからは満州や中国っぽいエキゾティシズムはカケラも感じられない。
 
 では、なぜ芸者歌手だったのか。ひとつの仮説はこうである。
 昭和8年(1933)に小唄勝太郎がうたった「東京音頭」「島の娘」が空前の大ヒット。翌年春には「さくら音頭」のタイトルで3つのレコード会社がことなる曲を同時発売するという「さくら音頭」合戦が勃発。「お座敷から広場の櫓へ」と“ハア小唄”はまさに全盛をむかえていた。これが、たまたま満州物がさかんになった時期と重なったというだけのことだと思う。
 
 それにしても興味深いのは、満州物にしろ、「東京音頭」のような“ハア小唄”にしろ、芸者の艶っぽさがあまり感じられないこと。悪所的なセクシャリティがここでは見事に消し去られている。芸者歌手の流行は、日本的伝統の復活というより、昭和モダニズムのなかでつくられた土着化と解釈すべきだろう。
 


 昭和12年(1937)7月7日、北京郊外廬溝橋付近で日中両軍が軍事衝突したのを機に日中戦争に突入する。日本軍は破竹の勢いで大陸を侵攻していく。
 
 これに呼応するかのように、エキゾチック・アジア歌謡の世界も満州物から中国物へと移行していく。
 チャイナ・ブームに火を点けたのは、竹岡信幸の作曲で渡辺はま子がうたった昭和13年(1938)発売の「支那の夜」。そしてそのピークが、西條八十作詞・服部良一作曲・渡辺はま子歌による昭和15年発売の「蘇州夜曲」であることに異論はないだろう。
 
 本盤収録曲でいうと、服部良一の妹で宝塚出身の服部富子がうたう「満州娘」(昭和13年)「北京覗き眼鏡」(同13年)「北京娘」(同15年)の3曲は、絵に描いたような紋切り型チャイナ・メロディ。兄の良一が書く曲のような繊細さはなく、“ねェ小唄”調の陽気なノベルティ・ソングである。
 ちなみに“ねェ小唄”とは、昭和11年に渡辺はま子がうたった「忘れちゃいやよ」に代表される媚態を含んだ歌詞と発声を特徴とする歌をさす。
 
 美ち奴とデュエットした「うちの女房にゃ髭がある」で知られるコメディアンの杉狂児がうたった「若いチャイナさん」(同13年)は、主人公が語りかける相手が若い中国人男性というきわめてめずらしい例。
 服部富子の3曲にも共通していえるのは、ここに描かれた中国人は、無知で単純で陽気で柔順なペットのような存在だということ。この程度の意識なのに大東亜共栄圏の実現を本気で考えていたとは、外国人の目には日本人はまちがいなく“キチガイ”と映ったことだろう。
 
 李香蘭がレコード歌手として成功するのは、コロムビアに移籍して昭和15年10月に発売された古賀政男の「紅い睡蓮」のヒットから。本盤収録の「何日君再来」「夢の太湖船」は、それ以前にテイチクに吹き込まれた10余曲のなかからの貴重な復刻。録音はともに昭和14年。
 「何日君再来」は、渡辺はま子ヴァージョンと同年発売だが、こちらは全編中国語。オリジナル同様、アコーディオンを使ったタンゴ・ハバネーラで知られざる名演といえよう。
 

 
 犯罪、謀略、麻薬、賭博、売春といった悪徳はびこる享楽の「魔都」上海がいちばん似合う日本人はやっぱりディック・ミネだろう。「東洋のヨーロッパ」といわれた上海へ「本場」のジャズにふれようと(金と女を求めて)南里文雄ら多くのバンドマンが“バンス”(前借り)して渡った。
 
 1933年のアメリカ映画の主題歌「上海リル」をミネ本人がカヴァーしたのは昭和11年(本盤未収録)。前年発売の川畑文子ヴァージョンで訳詞を書いたのもミネだった(『洋楽ポップスの系譜』収録)。
 本盤収録の「上海ブルース」「夜霧のブルース」は、上海をテーマにしたミネ得意のナルシズム系ブルースながら、前者は昭和13年、後者は昭和21年の録音。ともに大久保徳治郎の作曲。
 
 「上海ブルース」は、服部良一作曲で淡谷のり子がうたった和製ブルース第1号といわれる(ホントは昭和12年吹き込みの服部作品「夜霧の十字路」「別れのブルース」と同年のリリース。編曲は上海帰りのジャズ・ピアニスト杉原泰蔵。ミュート付きトロンボーン、トランペット、クラリネットのアンサンブルによるイントロや間奏部の生ギターが強烈な哀愁をさそう。古賀政男によって一躍ポピュラーになったギターをジャズ風のアンサンブルに組み込む手法は服部が生み出したものとはいえ、粋なピアノとスタッカートの効いたシンバルがジャズっぽくすばらしい。
 
 戦後の「夜霧のブルース」になると、よく似た曲調ながらアレンジ面でジャズのタッチは後退し、歌謡曲色がつよまった。ミネの歌い方も日本的なフシまわしが感じられるようになってきている。
 もっとも、昭和30年ごろからあらわれる都会調演歌といったほうがふさわしいブルースとくらべれば、戦前のブルースの流れをしっかり受け継いでいる。
 

 
 太平洋戦争がはじまる昭和16年(1941)になると、大陸歌謡は後退し代わって南方物が量産されるようになる。
 東海林太郎がうたう昭和16年発売の「仏印旅情」は、カンボジアとベトナムあたりが舞台のせいか、旋律は南国風というよりチャイナ風。チェレスタやドラ、女声合唱を用いてオリエンタル・ムードただよう幻想を演出しようとしている。ドラは東南アジアをあらわすシンボルとして使われたようだ。
 
 「ブンガワン・ソロ」は、1940年にインドネシアのグサンが書いたクロンチョンの超有名曲。戦後、南方から引き揚げてきた藤山一郎が採譜して日本にもたらした。松田トシの歌が有名だが、ここではディック・ミネのパートナーだった日系2世ベティ稲田が、バッキー白片とアロハ・ハワイアンズの伴奏で優雅にうたっている。昭和23年録音。
 
 本盤には、ほかに小笠原美都子の「アユチャの町」(昭和18年)を収録するも、灰田勝彦・大谷冽子(きよこ)がうたった昭和17年発売の「ジャワのマンゴ売り」(門田ゆたか作詞・佐野鋤(たすく)作編曲)をとりあげずして南方歌謡は語れないと思う。よって、南方歌謡については灰田勝彦のコーナーで詳述するつもり。
 
 アルバムのラスト4曲は朝鮮がらみの楽曲がならぶ。これらはそれまでの流れとはあきらかにちがっていて違和感を禁じ得ない。
 朝鮮は戦時中は日本に併合されていたし、日本の歌に近かったため、新鮮味はなくエキゾティシズムの対象にはならなかった。
 
 よく古賀メロディが朝鮮由来だといわれるが、それは日本支配下で伝統を絶たれて生まれた「倭色歌謡」の影響を受けているという。そして「カスバの女」を除く3曲はいずれも「倭色歌謡」の流れ。砂漠のブルース「カスバの女」は最高だけど、そのほかの演歌はやっぱり受けつけないなあ。
 
 テイチク音源というかぎられた条件下での選曲のため、最後はすこしネタ切れの感があるものの、切り込む視点の鋭さはさすが中村とうようさんである。本盤でしか聴けない復刻曲がいくつかあることもつけ加えておく必要があろう。


(7.16.04)



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by Tatsushi Tsukahara